ふとした瞬間に、昔の記憶が波のように戻ってくることがあります。たとえば、学校の教室の隅で、周りの楽しそうな声に混ざれずにただノートの端に線を引いていた時間。あるいは、自分の気持ちをうまく言葉にできなくて、喉の奥がぎゅっと熱くなったあの日の感覚。
大人になっても、似たようなもどかしさを抱える日は少なくありません。役所の手続きで渡された真っ白な書類を前にして「何を書けばいいかわからない」と立ち止まってしまったり、通院の待合室で自分の体調を説明する言葉が見つからず、ただカバンの中にある診察券の角を触って時間をやり過ごしたり。
そんな「言葉の迷子」になってしまったとき、誰かが作った色や形が、ふっと心に風を通してくれることがあります。
今、兵庫県の各地で、障がいのある方たちが生み出した作品を集めた展示会がいくつか開かれています。神戸のしあわせの村や、北播磨にあるギャラリー、さらには県立美術館での公募展に向けた動きなど、冬の澄んだ空気の中で、静かに、でも力強く、たくさんの「表現」が生まれています。
こうした展示会に足を運ぶと、そこにあるのは「上手な絵」だけではありません。細かく描き込まれたペンの跡、何度も塗り重ねられた絵の具の厚み、あるいは、説明がつかないけれど目が離せなくなる不思議な模様。それらはすべて、誰かが心の中に溜め込んでいた、言葉にできなかった「何か」が形になったものです。
画面に流れてきた作品の存在が目に留まるとき、それは「あなたも、そのままの形で外に出していいんだよ」という招待状のようにも感じられます。
兵庫県で広がる、表現の場というお守り
今、この兵庫県内で開催されている展示会や作品の募集は、単なるイベント以上の意味を持っています。たとえば、神戸市北区にある広大な公園施設で行われている作品展では、一点一点の背景に、その人が日々をどう生き、何を感じてきたかという物語が透けて見えます。
また、県立美術館で春に開催される大きな公募展に向けて、今まさに作品を準備している方たちもいます。締め切りが近づく今の時期、アトリエや自宅で画用紙に向き合っている人たちの心拍数は、きっと少しだけ高まっているかもしれません。
こうした場が用意されているのは、私たちが社会の中で「正しい言葉」や「効率的な説明」を求められすぎて、疲れてしまっているからではないでしょうか。
精神的なしんどさや発達の特性、あるいは知的な凸凹(でこぼこ)を抱えていると、どうしても「普通はこう言うべき」「こう伝えるのが正解」というルールに縛られがちです。でも、アートの世界には、最初から正解がありません。
いつ描いてもいいし、どこに描いてもいい。誰かに見せるためだけでなく、ただ自分のために色を選んでもいい。冬の冷え込みが厳しい今の時期、自分の内側にある熱量を何かにぶつけることは、自分自身を冷えから守る「お守り」のような役割を果たしてくれるのです。
「表現」が持つ、心を守るための仕組み
ここで、福祉の現場でも大切にされている「表現することの意味」について、少しだけやさしく整理してみましょう。
専門的な言葉に「アール・ブリュット(生の芸術)」というものがあります。これは、伝統的な芸術教育を受けていない人が、自分の中から湧き出る衝動のままに作り上げる芸術のことです。よくある誤解として、「アートをやるなら、才能がないといけない」「絵が上手くないと表現とは呼べない」というものがあります。でも、本来の表現とは、技術を競うものではありません。
「今の自分の状態を確認するための作業」
それが表現の正体です。つまり、今日のあなたにとっては、ノートに好きな色のペンで線を引くだけでも、それは立派な表現になり得ます。
・誰にも邪魔されない自分だけの場所を確保すること
・「今の気分」に合う色を、自分の手で選ぶこと
・形になったものを見て「あ、私は今こう思っていたんだ」と気づくこと
この三つのステップを繰り返すだけで、少しずつ自分のペースを取り戻せるようになります。展示会で他人の作品に触れることは、そのきっかけを外側から与えてもらう貴重な機会なのです。
スマイルラボで「作る」ことを日常の隣に
私たちスマイルラボは、尼崎という場所で、皆さんの「作る」活動をサポートしています。
展示会に出るような素晴らしい作品を作ることを、最初から目指さなくても大丈夫です。イラストを描いたり、Webメディアの記事を組み立てたり、細かなアクセサリーをひとつずつ形にしたり。スマイルラボにあるのは、自分の手を使って何かを生み出すための、穏やかな時間です。
「今日は言葉が出ないな」という日も、絵筆を動かしたり、パソコンの画面に向き合って色を調整したりする作業なら、不思議と進むことがあります。それは、脳の使う場所が少し違うからかもしれません。
作業の合間に、ふと窓の外を眺めたり、温かい飲み物を口にしたり。そんな小さな余白を大切にしながら、自分のリズムで「形にする」経験を積み重ねていく。その積み重ねが、いつか自分を支える自信に変わっていきます。
誰かに評価されるためではなく、まずは自分のために、何かを始めてみませんか。
兵庫県の各地で開催されているアート展の知らせは、私たちに「表現の自由さ」を思い出させてくれます。もし、今の生活の中で何かが詰まっているように感じたら、それはあなたが新しい表現の扉を叩こうとしているサインかもしれません。
言葉にならない思いを、無理に言葉に変えなくていい。まずは、あなたが「これ、いいな」と思う色や形に、会いに行くことから始めてみてください。
